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津軽三味線奏者の佐藤壽治です。
シリーズ投稿「才能と努力と環境」の2回目。
今回は3つのキーワードのうちのひとつ「才能」について書いてみたいと思います。
才能という言葉を方向を変えてみていきます。
今日はそのうちの1方向からのお話。
辞書で調べると才能というものは『生まれつき持った能力』とされます。
生まれつき持っているものって何でしょう?
音感やリズム感でしょうか?
筋力や体格、運動神経でしょうか?
『上手だと評価される津軽三味線奏者のすべての人と自分は何が違うのでしょうか?』
指は五本だし、腕は二本。背の高い低い、体重の重い軽い、腕の長い短い、指の長い短い、また性別の違いはあれど、基本的な構造は人間であるのであまり変わらないはずです。
あまり身体は変わらないけど津軽三味線の腕前は変わるので、なにかを理由に納得したいわけです。
一番都合のいい言葉が「才能」なんじゃないかな、と思います。
才能というもの自体が上手な人に存在しないわけじゃないです。
音感やリズム感に優れている部分はあります。音やリズムを体にしみ込ませるのも早いでしょうし、観ているだけでなんとなくわかってしまうような神がかりな感覚を持っていたりもします。
でも、その辺りのものって持っていない人を探すのが難しいくらい、ごろごろと転がっているというか、少なからずすべてのひとに備わっているものだと思うんです。
問題はそれが『特化』されているのか?という事じゃないかと。
パラメーター全振りみたいな感じと言えばいいでしょうか。
津軽三味線にだけ振られている状態。
その他の楽器に関しては全くの素人であるが、津軽三味線だけ異常なほど上手な状態。
才能はすべての人に備わっているんですが、その才能はどこに注がれていますか?いろんなものに注がれてませんか?
わたしはそういう風に才能を見ています。
才能があるひとはなんでもスゴイ。
これも大間違いですね。
試しに津軽三味線が上手な人を見つけたら違う楽器を触らせてみればいいです。それなりに上手なひとはいますけど、津軽三味線ほど上手ではありません。
あとは字を書かせたり、掃除をさせてみたり、料理を作らせてみたり、いろいろと見ていくとどこか劣ってる場所ってあるものです。
上手に出来ててもいいね!程度で、全てに通じるものではありません。
さあ、才能ってなんでしょうか?
どうやって働きかけるものなのでしょうか?
続きはまた。
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