初代 今重造

津軽三味線奏者の佐藤壽治です。

 

 

うちの先生(二代目 今重造)から聞く話の中で、まず最初に興味を持つ話題が『初代 今重造』師とのお話です。

 

どうやって名前を継ぐことになったのか?

継いで変わったこと、起きたことは?

 

この二点は今までもたくさんの人が質問してきました。

その辺りにふれたお話です。

 

 

 

昔々、後の『二代目今重造』になる『佐藤良治』は、青森県黒石市でりんご農家であった実家の手伝いをしつつ、民謡を楽しんでいました。

家族はみんな民謡が好きで、子供の頃から、祖母に手を引かれ「唄会」をよく見に行っていたそうです。

その時、身近にあった縁が、名前を継ぐようになる物語の始まりとなります。

 

 

※浅利みきさんや木田林松栄さんとの経緯もありますが、ここでは省略します。話を聞きたい方は、お問合せ下さい。

 

 

中学を出て民謡界へと入った『佐藤良治』を待っていたのは、華々しい舞台と、毎日賑わう民謡酒場でした。

北海道内を周ったり、本州日本海側を南下していくコンサートツアー(興行)や、全国各地のお店ごとに契約を交わしながら務める民謡酒場は、当時ものすごい盛り上がりで、舞台で唄うごとにおひねり(はな)がびっくりするほど上がっていたそうです。

 

実家を手伝いつつ、冬の農作業の無い時期は、舞台へ民謡酒場へと手伝いにいく際に、東京方面へも足を伸ばすことになりました。

東京へは、いわゆる「出稼ぎ」を一番に考えて向かうのですが、この出稼ぎ以外に、東京へ出て行き活躍していた芸人さんとの親交を深めていったそうです。

 

その中に『初代 今重造』師が存在し、当時東京まで出てきて活躍する民謡芸人は、みんな『初代 今重造』師を頼りました。

舞台に関係する商売は、でたらめが許されるような風潮が漂い始めた中、『初代 今重造』師はいつも誠実であり、温厚な人柄で後輩の面倒をみることを喜ぶひとだったそうです。

 

 

ある時『初代 今重造』師がお店を持つことになりました。

芸人さんが舞台を勤めた後に集まるお店となり「困ったことがあれば初代 今重造の店に行け」とまで言われ、津軽以外の民謡界でも、大事に大事にされたお店だったそうです。

 

そのお店のあった場所は、親交のあった横綱千代の山が親方として率いる「九重部屋」の裏で、親方が居ないときは、代わりに初代の先生が稽古を見ていたこともあったそうです。

その中には、後に活躍する横綱千代の富士の姿もあり、千代の富士が負けた日は、初代の先生の機嫌が悪かったとか。

 

そのお店に出入りするようになり、仕事で夜が遅くなれば「泊まっていけ」「飯を食っていけ」と舞台のことのみではなく、身の回りのことまでお世話になり、さらにはいろんな人と知り合うことが出来たそうです。

 

 

※東京での芸人さん達との話も長くなるので省略します。話を聞きたい方はお問合せ下さい。

 

 

ある時、お世話になった恩は返さなくてはと思い『佐藤良治』がある言葉を口にしました。

 

『世話になってなにか恩返しできるものもないし、俺の事を弟子にでも使い走りにでもして使ってくれよ』

      

当時、同じ年頃の若手芸人さんと言えば、基本的に「下足番」として下働きをしているのが当たり前でした。

憧れの先生が来たとしても、そばに寄る事すら出来ず、働きながら耳を澄まし、隙間から覗けるものなら覗いて芸を盗んでいく厳しい世界だったそうです。

 

そんな中、『佐藤良治』は「下足番」をしたことが無かったそうです。

出会った時に既に唄い手であったことが、まず強みであったこと、そして自分と縁を結んでくれた『初代 今重造』師が良い人だったからと、今でも思うそうです。

その『初代 今重造』師がその言葉に返したのは

 

『弟子は駄目だ・・・けやぐなら、いいかな。』

 

この言葉で『佐藤良治』は一生『初代 今重造』師についていくことを決めたそうです。

けやぐ=親友、という意味の津軽弁でありますが、自分より遥か上の芸人でもある『初代 今重造』師の心の広さ、暖かさが感じられる言葉です。

 その後、初代の先生もだんだんと年齢による衰えを感じるようになり、津軽のみならず日本全国にその名を轟かせた『今 重造』の看板を『佐藤良治』に渡すことに決めました。

 

 

※名前を渡すことに関して宇野清美さんとの話がありますが、長くなりますのでここでは省略します。話を聞きたい方はお問合せ下さい。

 

 

名前を継ぐことになって、起きたことは、まず『反対の声』を浴びたことです。

大御所、大先輩と言われる人から、怒りの声が続々届いたそうです。

 

 

※ここも書くと長くなるので省略します。話を聞きたい方はお問合せ下さい。

 

 

『今重造』の名跡は、津軽民謡界の宝と思い、語り継がなくてはならないと思ったことを反対されるとは、思いもしませんでした。

すでに襲名に関して動き始めていたこともあり、怒りの声を聞き続ける以外に方法は無く、とても困ったと話しています。

 

 

 

名前を継いで変わったこととして、『初代 今重造』師が愛唱していた唄を、自分が唄い継ぐことになったことでした。

津軽小原節の「嗚呼、洞爺丸」がそのうちの一つです。

 

唄の性質の違う人間が名前を継いだための葛藤もあったそうです。

物真似のごとく唄うべきなのか、自分の唄として唄うべきなのか。

 

当時は「あなたの唄は、初代の唄とぜんぜん違うね」と言われることが、たくさんあったそうです。

 『初代 今重造』師は声と力で唄うのに対し、『佐藤良治』は節回しと技巧で唄っていました。

 

相反するものをどう埋めていけばいいのか・・・それはキングレコードで収録された作品に想いとして込められています。

最初に手がけた作品には「太鼓」として『初代 今重造』師が加わっています。

どんな想いで叩いていたのか考えながら聴くと、また違った曲に感じます。 

 

 

 

初代の先生に世話になったという芸人さんは、非常に多いです。

真面目で面倒見がよく、気さくなところが人を惹きつけるのだと思います。

 

自分もいつかそういった人間になれるように・・・と今でも追いかけているそうです。

かなり省略していますが、そんな『初代 今重造』師とのお話でした。