ブログを御覧いただきありがとうございます。
津軽三味線奏者の佐藤壽治です。
コロナで暇なもんで、後ろ向きな事を考える事があります。
いつもニコニコが取り柄だと思ってはいるんですが、やっぱり人間だもの。
たまにはそういう事もあります。
最近考えたのは「プロってなんだろか?」という事。
わたしは演奏力があるからプロだとは思っていません。
上手なひとはたくさんいます。
現在大会で上位入賞しているひとが持つ技術は、過去に優勝しているひとや現在活躍するプロと呼ばれる人と変わる部分はありません。
あくまで「技術は」ですけど。
プロって言うのは、先ず精神なんだと考えてます。
わたしの場合であれば津軽であるという事にこだわっています。
三味線が上手なのではなく、津軽三味線が上手。
津軽民謡の要素やにおい、雰囲気を曲に出すのが得意です。
よく使うのは昔の芸人たちの演奏している旋律の数々です。
ひとに言わせればパクリなわけですが、いろんな流派の定番メロディーがわたしの演奏に出てきます。
木田流、白川流、竹山流。
現代でわかるようにすると、小山流に佐々木流や藤田流に五錦流。
ほかにも名前が広く知られてはいないけれど凄い奏者が昔にいて、それを参考にしています。
古い音源はうちの先生のコレクションの中にいっぱいあるので教材に困ることはありません。
しかもうちの先生が直に会い、一緒に舞台にあがっているので、より詳しく話も聞けるわけです。
ですから、たまに「あなたはいったい何流なの?」と不思議に思われることもあります。
流派とは伝えるためのもの。
神髄は精神。
各流派の精神は、どこを元にしているのか?と考えると、やはり津軽を元にしているのではないでしょうか。
土地を指し、生活を指し、津軽というものすべてを曲に現すために、先達が作り出したものです。
それを手順として覚え、身に染みる事で精神にも伝わります。
ものすごく大事なものなんですが、現代は流派がいっぱいあり過ぎて、わかりにくくなってます。
あっはっは。
あとこれは最も大事なこと。
精神よりもなによりも大事です。
『必要とされるかされないか』
結局仕事が来なければプロもくそもありません。
上手であっても対価が得られなければただの上手な人。
そんなに上手じゃないのに大成しているひとっていませんか?
そういうひとは必要とされているんです。
誰かに必要とされるとかではないです。
舞台に愛されている、そんな感じ。
演奏を依頼される人というのは、そういう意味が隠されていると思って欲しいです。
そしてコロナであろうがなんであろうが、依頼が来るということはそういう意味や流れがあるんです。
責任ありますよね。
上手であることが必要とされるものは大会だけ。
舞台はそうではありません。
舞台にはそういうものが隠れている・・・と、キャンセル続きの予定表を見て考えました。
プロになるのは簡単。
プロをやめることも簡単。
プロでいることは難しいです。
さて、わたしはいつまでプロでいられるのでしょうか。
と、そんな事を考えたりしてしまうコロナ禍の日々。
コメントをお書きください