津軽三味線奏者の佐藤壽治です。
初代 今重造師の奥様と名前の知れ渡っている以前は「金看板」として座長を務めたりもしたことのある唄い手「初代 成田雲竹女」。
名前が示すとおり「成田雲竹」一門であり、唄の掟に厳しい雲竹流の中でその実力を認められ、師匠の名前に性別の「女」のみを付け加えただけという、ほぼ『二代目』という名前を舞台で使っていました。
唄のことになると「初代 成田雲竹女」さんに初代 今重造師も質問するぐらいだったそうです。
※初代 今重造師との結婚までの経緯にはいろいろとありますのでここは省略。
そんな「初代 成田雲竹女」さんが東京で初代 今重造師と共にお店を切り盛りしていた頃のお話です。
日本民謡協会(現・公益財団法人日本民謡協会)より成田雲竹さんが名人位を頂いたときのこと。
成田雲竹さんが上京した際、食事にいろいろと好みがある人だったために「初代 成田雲竹女」さんを頼り、「じょんから」という初代 今重造師と二人で切り盛りするお店の2階に、度々宿泊していたそうです。
そんな折にうちの先生も同じ部屋で泊まることになったそうです。
名人位をもらった直後であったこともあり、名人位の賞状などを一通り見せてもらい就寝しようかと思ったのですが、なんせ偉い先生が近くに居るということでなかなか眠れなかった若かりし日のうちの先生。
すると、何かが気になっていた成田雲竹さんも眠りにつけなかったようで
『若い衆、寝たか?』
と、しばらくしてから床を並べていた成田雲竹さんから声がかかったそうです。
寝ていなかったうちの先生に、もう一度電気を点すように言って、ふたたび顔を見合わせて
『黒石に山唄の上手な佐藤っていうひとがいただろう?』
と成田雲竹さんから質問があり、
「佐藤寿昭さん(隣村出身)でしょうか」
と、うちの先生は、自分のことを言っているのだとわかっていたのですが、少しとぼけて答えると、
『もっと若いやつだ!』
と即答する、成田雲竹さん。
津軽で開催されていた唄の大会で、何度も審査員席に座っていた成田雲竹さんの耳に、当時唄っていた津軽山唄が残っていたそうです。
覚えていてくれたことを喜びつつ、その後も少し話をしてから就寝して翌日。
食事の支度を「初代 成田雲竹女」さんが用意してくれた時、用意された食事に驚きます。
自分に出された焼き魚は普通に焼かれていたのですが、成田雲竹さんの焼き魚はとてもよく焼かれていたそうです。
焦げてはないのですが、 乾いているのではないか?という焼き魚の姿に驚いたうちの先生。
どういうことなのか聞いてみると、
「雲竹先生は食べ物のことがあれこれ好みがあってさ・・・」
との返事。
なるほど、身の回りのお世話からしていた「初代 成田雲竹女」さんのところに泊まりに来るわけだ・・・と思った出来事。
現在も記憶に残るこの話は、青森市にある『甚太古』の西川洋子さんもそうであったことを話します。※お店の名前をクリックするとホームページに移ります。
師匠である成田雲竹さんの身の回りのお世話はもとより、雲竹一門である、高橋竹山さんの身の回りのことから仕事のことなど、いろんな人から慕われた初代 成田雲竹女さん。
気の使い方や、心の配り方まで、いろんなことを示してくれたそうです。
唄声は手術が元で聞けなくなってしまいましたが、小声で唄ってくれる唄は、それはそれは滑らかで味わいのある歌だったそうです。
もっと唄のことを聞いておきたかった・・・と、今でも話しています。
一度は音源にふれてもらいたいと思う先生のひとりです。